「音楽」

「音楽」




「じゃあ…千夏ちゃんはそんなことがあって…。」

 桜はうつむいた。とある高校の一室に陽の光が静かに差し込んでいく。

「たいへん…だったよね。辛いよね。苦しかったよね…。」

「…おかげ様で人間不信ですよ。今は前ほどではありませんがやっぱり左手をつかま れると記憶が蘇って辛くなって、今日みたいな事に…。」

千夏は苦笑いをした。

「未だに"あのひ"の呪縛から逃れられないんです。未練がましいですよね…。」

「千夏ちゃん」

桜は千夏の顔を見上げた。

「今は?今は生きることをどう思っているの?」

「…いきなり核心つくこといいますね。さすが、進学クラスの桜さんです。」

その言葉を聞いて桜は照れたように窓の外を見た。真昼の青い空がまぶしい。雲はふ わふわと___実際はさわれないのでふわふわしているわけがないのだが___青い 空に浮かんでいた。

「私を、いまの私を作っている、そして去年の私を救ったのも"音楽"でした。そし て今も私は音楽に関わっていりだしたいという思いでここにいます。それは生存であ り存在です。あの車道に飛びだした後も___。」

丁寧に丁寧に紬だされる糸は再び糸の形をなしていく。


「千夏!なんであんなことしたの?!」

 千夏は自室のベッドに座っていた。車道に飛びだしたとき偶然そこに居合わせた同学年 トランペットパートの藤野里香に___里香は家も千夏と近かったが今まで会話する機会 はあまりなかった___ほんのわずかな差で引っ張られた。引っ張られたと同時に道路を 転がり、多少の汚れはついたものの、千夏自身も里香も___里香にとっては迷惑でしか ないだろう___軽くひざをすりむいただけで終わった。むしろ千夏を轢きそうになった 若い男のほうが錯乱していた。すぐに車から落ちるように降りると、ぶつからんばかりの 勢いで千夏たちの下へと走ってきた。大騒ぎしたあげくに『学校や家庭に連絡させてくれ』 と言いだしたので(もちろん千夏は『やめてください』と言ったのだが)すぐに千夏の母 にも知れるところとなった。男は千夏と里香を千夏の家まで送り届けると、やっと静かに 帰っていった。

「…」

 千夏は母の問には答えず、沈黙していた。担任の川村先生も来て、里香と共に千夏の部 屋の壁際に並んでいた。

「なんで死のうとしたの?」

母が口を開いたが、顔も見ずに千夏はまるで本当の人形のように沈黙を続けていた。

「命を___なんだと思って…」

「生きていても辛いだけだから。」

表情を変えずに千夏の口だけが動く。

「生きていて…また"あの日"のようなことをもう経験したくないから。だったら…死ん だほうが楽かなって。」

「ちな…」

「千夏ちゃんのお母さん。」

また何か言いかけようとした千夏の母の声を遮って里香が言葉を発した。

「今日はもう遅いので、千夏ちゃんを休ませてあげては…。」

「…私もそう思います。」

驚きを隠せず、千夏と同じく沈黙していた川村先生もそれに同意した。ただ千夏と違うの は千夏が無表情なのに対し、川村先生は信じられないといった様子で顔を真っ青にしてい たことだった。

「分かりました…じゃあ千夏、夕ご飯はリビングに作ってあるから食べられるなら来なさ いよ。」

母はそう言い残して川村先生、里香と共に部屋を出た。



 電気を消す。廊下の明かりで真っ暗にはならなかった。薄暗い闇に千夏の部屋は包まれ た。そっと壁に寄りかかる。リビングのほうから川村先生と母の話しが聞こえる。

「…正直言って信じられません。あんなにしっかりした子なのに…」

「無理して…元気に見せて居たのでしょうか…家でも特に変わった様子は…」

(…死ねなかった)

 千夏は家に帰って初めて顔に表情を出した。その表情は涙と共に表れる絶望の表情を手 に取った。はを出すと手が知らずに震えた。鈍い色を妖しく放つ光は千夏の目に命を断つ 道具として映った。しばらく刃を出したり収めたりを繰り替えす。何度目に刃をその薄暗 い闇にさらしたときだろうか、5、6pぐらい出して止める。その刃を左手にあてる。横に 引くと赤くにじむ線がついた。鋭い痛みが走るがいったんその刃を左手からはずし、また あて、横に引く。今度はたっぷり10秒ほどをかけて引くと1本目よりもにじむのが遅い 線が千夏の左手に書かれた。何本もの線を千夏は書き、ナイフの刃にはいつの間にか血が 付いていた。しかし致命症となるほどの深い傷はつかなかった。つけることが出来なかっ た。

(生きるのは辛い…でも死ぬのはこわいなんて…)

頬を流れる涙が左手に落ち、ピリリとした痛みが千夏に"生"を実感させた。

(生きている…まだ生きている…なぜ?死ぬのが怖いから。死ぬ勇気がもてないから…臆 病だから…)

 最後にはその鈍く妖しい光をしまい、机へと投げる。軽い音をたててソレは落ちた。同 時に千夏はベッドへと倒れ込んだ。掛け布団を頭からかぶり、まるで雷の音を聞くまいと する小さな子供のように枕に顔をうずめた。

(どうすればいい…生か、死か…でももう苦しいのはいやだ…)

千夏の心とは裏腹に、夜の闇に浮かぶ月は黄金のように輝く神々しい光を出していた。そ の光はカーテンに閉ざされ、千夏のベッドさえ照すことは無かった。机の上のしまわれた ナイフの刃が細かく線となった月の光と交差して十字を描いていた___。

 千夏はその後1週間高熱をだして寝込むこととなった。学校にはもとより行く気が起き なかったがもし行く気があっても行けない、そんな日が続いた。1日中うなされていた日 もあった。そんなときに見る夢は例によって例のごとく、"あの日"の夢であった。熱が 下がる度に千夏は左手に出来ている何本もの赤い線をひっかき血をにじませるか、もしく は新たな線を書き足すかのどちらかを繰り替えしていた。

 1週間が過ぎようとしていたある日、千夏の下に里香が訪ねてきた。

「千夏。起きてる?」

母の声がドアの向こうから聞こえてくる。千夏が答える前にドアは開いた。

(ノックの意味ないし…)

「藤野さんが来てくれたのよ。」

「千夏ちゃん、久しぶり。」

「…どうも」

「じゃあお母さんはリビングにいるからね。藤野さんごゆっくり…」

トントントン…

階段を降りる足音が聞こえた。里香は手に1枚のCDを持っていた。

「…今日ね、千夏ちゃんに聞いてもらおうと思ってCD持ってきたんだ。私がすごい好き な曲でね、千夏ちゃんも多分気に入ると思うよ。」

「…」

「このコンポ借りるねー。」

「うん…」

会話にならない会話をしながらも里香は手際よくコンポのプラグをコンセントに差しこみ、 机の上のCDコンポにCDを入れ、再生ボタンを探しだした。

カチッ。

美しい旋律が流れだす。美しいが力強く、どこかかなしく、そして暖かい曲だった。

(この曲___。)

千夏の凍り付いていた心に暖かく旋律がはいり込んで来た。すこしずつだが確実に、千夏 の心の凍りついたものは溶けていった。

(『祝典のためのコラール』…!)

知っている曲なのに涙があふれる。

(そういえば音楽にも部活が休みになって以来触れていない…こんなにも身体は音楽を求 めているのに!)

尽きたと思っていた涙がどんどん流れ出してきた。

「…!千夏ちゃん…。」

里香は微笑んだ。千夏はその旋律を口ずさんでいた。歌は空気に伝わっていく。室内なの に何故か風を感じた。
(あぁ…私はまだ生きていける…音楽があれば生きていける!私は音楽を作りだす存在に なりたい。辛いことがあっても音楽があればいい。音楽そのものになれればいい…)


 「それでは、基礎合奏を始めます。」

 美由の声が皆の練習していた音をいっきに消した。

 千夏は1週間ぶりに学校へ行き部活にも出席した。基礎合奏もじつに2週間ぶりといっ たところだ。メトロノームでカウントを取り、基礎合奏が始まる。ブレスを取り、千夏も 音を出した。まだ調子が出ないのか少しよたってしまった。

(えっと…もう少し…こうすればいいかな?)

周りに音が溶け込んでいくのが分かった。基礎合奏なのに音楽の流れを感じることが出来 た。

(今までどうして気付かなかったんだろう…)

 曲を練習するとその流れは一層感じられた。この曲は来年のコンクールに向けての練習 曲代わりだったが千夏も割と好きな曲だ。自然と力が入る。

(『贖罪』は暗い曲だ…『罪を償う』…こんなに軽い音じゃ変だ。もっとこういう具合に …)

(ここは悲しい感じで…もっと音を重くしたらどうだろうか?)

ふわっ…

(…風…音楽の流れ…心のうた…響きあう。)

 それはまるで機織りの縦糸と横糸のように周りの音とからまり合う。一つとして不必要 なものは無く、一本でも切れてしまえばもろくなってしまう、不安定なもの…。しかしだからこそ完成を見たとき美しいものが出来上がる。

 千夏の心に一筋の光が差し込み暗闇を完全に照し出した。

 2学期も終わろうとする12月のある日だった。

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